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『真宗の信心』一楽典次
三 恵み限りなし
仏が見える場所
念仏者のよろこび
妙楽勝真心
恵みに限りなし
只今は本年の当寺報恩講の結願(けちがん)のお参りご法要が真に厳かに勤まりまして、始めからずっと皆様と一緒にお参りをさして戴いておりました。如来大悲の恩徳は身を粉にしても報すべし、師主知識(ししゅちしき)の恩徳(おんどく)も骨を砕きても謝すべし、年々歳々、この親鸞聖人のいただかれました真実の喜びの世界を私共もまたその心を受継ぎながら、我が心として噛みしめさせてもらい、改めてその事を我が身に確かめさして戴いておるわけで御座います。今日皆様方のお参りになっておる姿を拝まして貰いますとね、やはり報恩講のお参りにはご縁が深くて度重ねて参って下さっておるような感じが致します。そういう心得を判っておって下さいます方が、どちらかというと少なくなりましてね。何をいわれておるのかと。ことに若い世代、若い方々がもしここに皆様と同じようにこの席につながっておられるとすると、恐らくは何かちょっと厳かな感じはすると思うけれど、しかしそこで何が行われておるのだやろうか、丁寧にお祈りでもされておるのかと。この頃は何かあると直ぐにお祈りを捧げるというような事を考えてしまいます。それより他にこうしてお参りする事の内容がない様になっておる様な気がします。
もし今申しましたような仏前に何か仏に願いをかける、何か旨いことになりますようにと、祈りをかけるような事になりかねん事が多い事でございます。
そんな事じゃないよ!報恩という言葉は、仏から戴いている限りない恵。限りなく恵まれておる事を、なかなか素直に受け取る事が出来ない。その我が心が一つひっくり返って改めさせられることです。大きなご恩というものが百重千重圍遶(ひゃくじゅうせんじゅういにょう)してといわれるように、一重や二重じゃない百重千重巡り巡って喜び守りたもうというのです。皆さんは我が身に頂かれた心を我が身だけの心の中にしまっておかないでいただきたい。大事なことですから。でないとこのお参りをする心、信心といいましても人間が自分勝手な願いを仏に投げかける、旨いことやって下されと。そういう事になって終わっておる面がだんだん強まるばかりです
およそ親鸞聖人の教えの心、浄土真宗の精神からは反対になっておるのです。その事を先ず申し上げたい。今日まこと偶然二俣の本泉寺の前のご院さんと金沢駅で遇いました。私とは学校で七〜八年の違いでしょうか、とにかく大先輩です。曽我量深(そがりょうじん)先生の教えを受けられた安田理深という方がおられました。その安田先生の教えをずうっと京都の学校で聞かしてもらいました。こっちへ帰ってきてからもあちらこちらと先生の教えの縁のあった金石の本龍寺さんとか松任の聖興寺さんとか、みんな寄り合って、年に二〜三回の聴聞会,学習会をずうっと続けてきておりました。二俣のお寺へはそういう因縁で何遍その講座に参加させてもろうたかしれません。先生の講座が終わるとみんな一緒になって一杯飲んで、聞法の限りを遠慮会釈なしにお互い論議を闘わしておったもんです。その松扉さんに何処へお出かけですかとお尋ねすると、亡くなられた松扉哲雄先生の葬式にお参りされるとのことでした。本泉寺は以前より井波の瑞泉寺と連なって北陸の一つの拠点でした。蓮如上人が吉崎へおいでになる事が出来て、吉崎を一つの足場にしてご活動なさいましたのも、二俣があったればこそといわれます。私にとっては何ともいいようのない懐かしい出遇いをしたもんですからついついこんな話をしました。こんなお話をはじめたのは、二俣の寺は近くの方々何時でも、平生の何でもない日でも七〜八人か十人か知らんけれども、毎朝のお勤めに皆お参りになるというような事があるようです。昔からそういう因縁が深いからなんです。おばちゃん達が朝の平生のお参りの時にお寺へ行ってお参りをしておられた。そこへ丁度ある有名な作家の方が行き合わせてね、その有名な作家の方がね、作家ですから随分知識教養の深い方であるというべきでしょう。
その方がばあちゃん達に、ばあちゃん!あんたらこうしてお寺へ来て何をしておいでるのか。一体何をお祈りしたのかといわれたそうです。仏さんの前へ来て、何をお祈りしたがやと、こう尋ねた処が凄い答えがそこから跳ね返ってきた。どんな答えかというと「おららお寺へ祈りに来たんじゃない。祈りに来たんじゃない。何んやというと,お礼とげに来たがや」と。お礼とげるという言葉がね,今はもう生きておるかどうかわかりません。そんな感じがしますけど、私共はやっぱり本当に腹に落ち着く親しんで来た言葉であります。お礼をとげるという事にはそんな理屈はないんですよ。何んかもろうたからお礼いう心でさえもないんですよ。そんなもらった、もらわんよりも我々が何か物欲しげなこの根性でね、戴いたとか何とかっていっておる以上に、もっともっと全体をね、考えてみよ。
命それ自体でないか。生まれて生きて、生きておる命それ自体、本当に貰ろうたというなら、これはあなたさまから貰ろうたもんや。お礼いうどころの騒ぎでない。お礼をいおうが、いうまいが、例えばそれこそ自然の恵みという事もあります。今日は燦燦と日が照っていて下さいます。日の照らん日は日の恵がないかというとそんな事はない。あの正信偈の言葉の中に「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇(ひにょにっこうふうんむ うんむしげみょうむあん」といわれます。日光が雲、霧に覆われているけれども、だからといって闇ではない。光りゃ温かいのになっている。雲霧の下、明らかにして闇ではない、明るい。だから照っておろうが曇っておろうが日の恵、日の力そのものには変わりはないという世界がありますね。しかし今日は特に燦燦とこうして恵の光を戴いております。こんな時そんなお礼などの及ばない世界でしょう。
光そのものはね、善悪へだてなく絶対平等、こんな大きな恵はお礼いおうがいうまいが、有難いと思おうが思うまいが、更にそこに隔てはないですね。あいつはこれだけ暖こうして照らしてやって、恵んでおるのに、一言もお礼いうた事もない。もう照らす事止めようかという事になったらどうなる。笑い話にもならんような話ですけれども、その位の事は皆さんも十分に味おうておってくださるでしょう。
仏が見える場所
昨日来の御縁で今席で第三回でありますが、始める前に帰依文を、皆一緒に唱えて下さいました。おかみそりいただくという事あるでしょう。つまり得度(とくど)するんです。皆さんはおかみそりを受けて法名もらうでしょう。仏弟子になる一つの儀式です。人生の一つの節目です。仏の弟子になって、仏の弟子としこれからの人生を生かして貰いますと決心する一つの大きな節目でしょうね。そのご縁のなかった人はお葬式の時にします。ご住職がねお葬式のお勤めの始まる前に一番大切な法衣を着て、つまり仏の代理をなさるわけですわ。おかみそりをして法名を与えられますね。それが変な因習になりますと、死後の世界への切符みたいに思うてね。おかみそりしておかないといかん。あれをしないとどういう事になるやら判らんという事をこれも平気でいっておる。それ程にその中身の仏弟子になるという事の意味とか、その精神の本当の意味の境地ですよ。本当の意味の導きですね。それが判らんままにただ単なる形になっている。そんな話です。死んでどところの騒ぎでない。私は生まれた日にしたらいいと思うほどです。生まれた日にすれば、そこから本当に人が、人間としての生活といいますか、生き様を始めていけるんでね。この頃は人間の形をしているが人間とはいえんようなこれが人間のする事かという事を思わせるような、なんともいえん事件が次々と起こっておる昨今であります。皆様もそう思われるでしょう。これが一体人間のする事かと、あれは人間ではない。だから人にして人に非ず、あれは人非人、人にして人に非ず。人の形をしているけども、どう考えても中身は人間とはいえない。子を育て子を愛し子の為には我が身を犠牲にしてでもと、そういう命の世界の営みが動物の世界のテレビで色々知らして貰えます。私はああいうテレビを観るのが大好きです。自然の営み。動物の生活の命の営みというものを、ありありと観せて下さる。よくまああんなカメラを旨いこと使って、ああいう映像を観る度に、あれを写しておる人がおいでるのだなと思うんですね。例えば山の絶壁を登る姿とか、ぶら下がる姿があるでしょう。あれはどうして写されるんやろうかね。へリコプターか何んかで、ヘリコプターで写してあんな綺麗に写らん。何んかそこにきちんと写すご苦労をしておる方がおありなのです。しかも表面に少しも現れない。あれは仏仕事みたいなものだ。大変な事がそこにあるという事を思いながら観るんです。犬や猫でさえも子供の為に,大きなご苦労をしておるのに、人間はひどい事になったもんだと思いますよ。あんな人間は特殊なものだといって我が身と関係ないとこういってしまえばそれまですけども、生んだ子供を邪魔になるから殺すとか何んとか、本当になんともいえん思いです。今更いわんでもね。遂には保険を掛けて殺した話も出てきたわね。どんな根性であんな事をされるか、こう一面には思わずにはおれません。
しかしそういう事がだんだんとああ叉かと。随分もう何十年も前にね、ばらばらにした殺人事件がありました。その時はもう大変な事が始まったわいとこう思ったけれども、今ではもう恐ろしく麻痺してしもうたね。この頃はもうバラバラの事が出てきても、ああそうか叉やったかというもんや。うわべを見てれば、人間と人間なんにも変りはないですけれど。どうかすると人間の誤魔化しがだんだん巧妙になってね、言葉の上からも,姿の上からもまるで神仏というような顔形をしておるけれども内面が悪魔です。それが表れてきておる時代、今いい出すと次々と出てきてキリがないみたいですけど、その中で親鸞聖人が一つ私共に大変な事を注意して下さっております。
それはどういう事かといいますと、わしゃまさかあんななひどい事は思いもせんするもせん、とこう思うて我が身を普通の善人、強い人間やと思うておる心があるわけだから。悪いものはひとである。その我々の心に大きな楔を打ち込んで下さいました。ひとごとでないぞと「さるべき業縁(ごうえん)のもよほせば如何(いか)なるふるまいもすべし」と。業縁にさそわれて出遇って来るとどんな事をするか判らんぞと。そういう我が身であると。今しないからそういう事をしない善い人間やなどという事を思うわけには決していかない。むしろ我々は可能性としては、どんな恐ろしい事でも平気でやるものを何時もいまこの中に抱えておる。その意味ではそれは表に現れる現れない、言うて言葉にするとしないとに関わらない。内面の中心に抱えていることですから、一生造悪というんですわ。
これも正信偈にあるでしょう。「一生造悪値弘誓(いっしょうぞうあくちぐぜい)」一生のあいだ改めようと思ったって、改めて改められるようなそういう上等の構造にはなっておらん人間やぞと、「さるべき業縁のもよほせば如何なるふるまいもすべし」宿業(しゅくごう)のもよほしという事も出て来ますけども、そういう事で私共に非常に大きな戒めと注意を与えて下さっています。南無阿弥陀仏と念仏する心阿弥陀仏に南無する、阿弥陀仏に頭が下がる。南無するとは頭を下げる。形の上では頭を下げる。心の思い上がりがそれに依って、教えに照らし出されて、思い上がった心がひっくり返る事です。そこに「一生造悪値弘誓」と。これが大事な事やね。「一生造悪」というもう一回も離れた事のない最後の最後まで、その意味ではどんな罪業を起こすか判らんような造悪ものです。
つみ深く如来をたのむ身になれば、という蓮如様の歌がお文に載せられています。親鸞聖人は難しい言葉で「一生造悪」者、一生悪をつくる者と。一生ですから生きている間じゅう悪をつくるという事です。それが弘誓に値う。弘誓という事は広い誓い、広い誓いという事は阿弥陀仏が何んとしても漏れなく平等に命あるもの全てを助けようというそういう誓いです。約束、助けようという願い。願いは願いでもそうなると良いなという願望ではなくて、弘誓に遇えば「一生造悪」のものも、その弘誓(ぐぜい)に遇えば安養界(あんにょうかい)に至って、妙果(みょうか)を証せしめるという約束です。ね皆さん我が身の中にお持ち合わせのその心で味おうて下さってもよいですよ。安養界、本当に安らかな世界です。現実そう考えて見てもそんなものありますか。けれども今阿弥陀仏は我国に生まれようと思えという。我国、そんな国はどこかね?表面だけを見ると西方十万億(さいほうじゅうまんおく)の彼方にという。お経様にそういうふうに書いてあるけれども、それはどんな心を表してあるか。我々の思いで思い描こうとしても、そういう思いが届くような浅はかな近い世界ではない事を、譬えて表した世界です。十万億を過ぎた世界なんちゅう事はね、宇宙の果てなんだ。
この頃は宇宙の科学などはね、ものすごい研究が成されてるね。何か想像を絶しますわ。今星を見とるでしょ、今見とる星は今の光じゃないというんでしょう。何千年前や何億年前くらいの話でない。そういう凄い世界が宇宙の世界でしょう。その宇宙というような世界を今こういうふうに色々いうておるのだけれども、十万億の国土といった時にそれでも人間は一応天体望遠鏡なんか作られまして、それでだいぶ判ったつもりでおるわけでしょう。けどどれだけ判ってもそういう判り方で判った世界というものはたかの知れたものである。そうでしょう。いわゆる生の悩み,生の苦悩というものを解決し、それから死の悩み死の恐れというようなものを解決し生死解脱(しょうじげだつ)、生と死を解脱する。解脱は開放です。本当の開放。そんなものは何処にあります。そんな事宇宙科学をなんか見ておってもさっぱりわかりません。
しかし人間最大重要問題はこの我が身一つ、生きるか死ぬかその問題でしょう。何やかやと色々いってみたって、その事一つが押しかけて来た時には、一切が全部もう無駄になり闇になる。その闇が何処で解決されるか、その闇が晴れさせられる事程の物凄い世界はないです。それを親鸞聖人は、本当に苦悩のどん底をくぐり抜けて喜ばれたと。夢にも見れないような事がここにあったといってですね法然上人の念仏の教えのもとに真実の光明を得た。「真実明に帰命せよ」という言葉があるでしょう。それ一つ見ても今のこの問題がぴんぴんと響いてくる。「一生造悪値弘誓」安養界にいたって妙果を証せしむ。まあ一応ですがそういう言葉のお伝えをします。帰命無量寿如来に始まるそのなかに「至安養界証妙果」(しあんにょうかいしょうみょうか)というような一言もありますから。しかも先程ちょっといいました「雲霧之下明無闇」どれだけ雲、霧にさえぎられておっても少しも雲、霧が妨げにならない明るい世界がある。これも凄い世界でしょう我々は雲や霧が出てくるとああもう今日は駄目やとこれじゃ駄目やないかというて直ぐに打ちひしがれるでしょう。そんなもんじゃない。そんなちっぽけな光じゃない。そんな弱い光じゃない。「雲霧之下明無闇」(うんむしげみょうむあん)というような世界も味わえますね。それも皆一つの事です。蓮如上人のお陰様でね!この親鸞聖人の極めて難しいというふうに感ずる世界を本当に身近なところに、日常の井戸端会議でも語り合うような雰囲気の中で伝えて下さったんやね。そこが有りがたい。だから忽ちに伝わった。しかも与えて下さったものが迷信や邪教の世界じゃないでしょう。真実の信心、まことの心と書いてある。そのまことの心というものが現に、凡夫(ぼんぶ)といわれておる人間の上に、仏の悟りがそのま開かれておる。皆さんそれはね、今日こうしてお参りになっておられる方は間違いもなしにここ真宗門徒の方々であり、それから浄光寺さんの門徒でもあり、二重三重の深い深いつながりの中に、仏とつながれておる。その縁を生かすという事は、我が身と心の中にそういう大きな光と力、勇気を得ることです。コンプレックスなんかいらん。我々みたいなもの、気分が吹っ飛んでしまうようなものを身にいただけて来る処に「念仏は無碍(むげ)の一道なり」といわれた「歎異鈔(たんにしょう)」の力強い地盤がありますね。念仏は「無碍の一道なり。そのいわれいかんとならば、信心の行者には、天神地祇(てんじんじぎ)も敬伏(きょうぶく)し、魔界外道(まかいげどう)も障碍(しょうげ)すること無し。罪悪も業報(ごうほう)をかんずることあたわず」これは何かのたたりでないかなどと直ぐ云いますね。あれは如何に心の世界が留守になっているものの姿かという事がわかります。脅かされ脅かされて、そしてとんでもない馬鹿げた宗教の信心を勧められて、そして挙句の果てにはどういう状態になるかというと脳が気狂い状態になる。まともにそういうのを信じた信心も狂信ですがね、邪心狂信(じゃしんきょうしん)の信心に惑乱(わくらん)をされておるのがこの頃の情けない姿ですね。そんな中でこうして帰命無量寿如来、南無阿弥陀仏というこの一言のもとに、正信の真実の信仰というものを掲げて与えて下さってあります。同じ事繰り返すようですけども、その心をこんな歌に蓮如様はしてあります。これを細かく見ます三首詠歌というお文さんですけれども特にこの歌をね、一つの今日の締めくくりというわけにもいかんのです。けれどもせめてものご縁として確かめさして戴きたいと思います。
第一首 「ひとたびも ほとけをたのむ こころこそ まことののりに かなうみちなれ」
第二首「つみふかく 如来をたのむ 身になればのりのちからに にしへこそゆけ」
第三首‘法(のり)をきく みちにこころの さだまれば 南無阿弥陀仏と となえこそすれ」
この歌はどういう心かと蓮如様ご自身が解説して、それは入正定聚(にゅうしょうじょうじゅ)、入正定聚の益、それから必至滅度(ひっしめつど)のこころであると。もうご存知の方がおられて大変うれしい。そういう心を読んだ歌なのである。三首あります。始めはね、一念帰命の信心決定の姿を詠んだ。ひとたびも仏をたのむ心こそ真の法にかのう道なれ。これが第一首目。のりをきく道に心の定まれば南無阿弥陀仏ととなえこそすれ。これは知恩報徳のこころ。第三首目はそういう歌です。三首ご詠歌で真宗が尽くされます。ずっと戴いていくとね、我々は、常日頃なんじゃかんじゃとわけのわからん事を呟いては、毎日毎日、結構なもの着せて貰ろうて、食べさして戴いておりながら、その事を何にも受け取らないで、そしてどうなる事やらといって、それこそいらん取り越し苦労やら昔はよかったというような事をいい出して変な後悔して見たり、今日の現に与えられておる事その事を素直に戴き確かめもしないで、何が人間生活の充実や喜びがありますか。お仏壇へ參ってもお佛供さん(お仏飯)上げておリンをチンチンとたたいてお参りした事にしている。この頃そんな事ばかり聞かされます。私はお参り欠かした事ありません。お佛供さんだけは上げとります。お佛供さん上げてそしてチンチンおリンを叩いてこれでどうぞ宜しゅうお願いします。そんなのは参っとるんでも何んでもない。我が身の勝手な注文を付けとるだけのもんです。その辺から一つひっくり返していかないといけない。浄土真宗だけでのことではない。世の中じゅう一辺ひっくり返らんといかんね。我が身中心の事を当たり前にしとるでしょう。どんどんとその輪が広がるばっかりです。そういう邪見(じゃけん)がね。私は現在医者にいわれまして一日に一万歩は必ず歩いております。お陰さんでこのお文さんを牛が反芻するようにね,歩きながらとなえたりするのです。まあ色々あります。
念仏者のよろこび
先ほどの御勤めで親鸞聖人の事をご住職がここの正面の高座で丁重に読まれたでしょう。小さい声ですから、なんでもっと大きい声でわかる様にいわれないのかと思われたかもしれません。これは一つの儀式作法としまして大きな声出さないのです。それはお参りなさるご住職ご自身が我が身に呟くようにいただくわけです。お念仏だって人に聞かせる為に称えるもんやないです。曽我先生なんかね、なんまんだ、なんまんだ云うてね、わしゃ念仏者やぞという顔しとるけど、そんなこれみよがしの念仏は嫌じゃ、我が身の心に響くようなそういう心持で我が身に仏の呼び声を聞かして貰うというふうな心持で称えればいいといわれました。
しかし声に出して称えるとあります。称名念仏(しょうみょうねんぶつ)ですから、称るのですから。しかしこの頃は念仏が声にならん人ばっかりや。これでも心の中ではは思うておるがですけども、なかなか声に出ないといわれる。この頃口頭癌にかかっとる人ばっかりです。念仏の声をだそうと思うと声がでてこんと。あ々可哀想にと思う。お念仏を南無阿弥陀仏と声に出してくれと仏はおっしゃる。蓮如さんは憶念称名いさみあり、といわれれる。そんな事でね道を歩いておっても、一人でおっても憶念があればそれこそ本当に楽しみなわね。人間はね、一人でおれるのが独立者ですよ。一人でおっても充実する、楽しい世界が与えられるというのが、それが仏法生活の喜びや。妙楽勝真心(みょうらくしょうしんしん)という凄い言葉があります。大体独りで死んでいかんならんやろ。独り生まれて独り死んで、独り去って独り来る。その独り々という事がね,孤独になったら地獄や、闇や、独りぼっちってね。この頃その問題が出てきます。独居老人孤独の生活ってね、そんなこと、そう簡単に片付けるわけには決していかん。だから介護保険とかなんとかで大変な問題が国中の問題になって、これからのそういった方々の為の人生の在り方、補償という事が一生懸命にいわれているのです。それは決してゆるがせにする事の出来ない問題ですけども。じゃあどうです!それさえあればそれでいけるんですか?そこの問題です。どれだけ与えられ補償されても、それだけでは満たされないものがある筈です。逆にいえばそれをひっくり返していけば今度はですね、この頃忘れ去られてる世界ですけどね。釈尊のあの乞食(こつじき)の生活はどうやった。ぼろぼろの人生や。形からいえばぼろぼろの人生です。八十歳の老人がですよ行き倒れになって道中で死にましたがや。クシナガーラという処ですね。しかしその世界は本当の寂滅(じゃくめつ)の世界に入る。一切全て静かに安楽におさまる世界、同じ死ぬのにも,何処でどうなって行き倒れになっても構わんがや。どれだけ金殿楼閣の中にですね、十重二十重にかこまれていても、そんな事で人間は休まるもんでも何んでもない。この頃私はお葬式に参る度に思う、お葬式がちょっとね、金ピカになり過ぎているなあと思います。親鸞聖人は、私が目を閉じたら鴨川に流して魚に与えて下さいよとおっしゃった。そういう事をね。だから今日ご院さんがあそこでお読みになったのは、そういう親鸞聖人の教えのお陰をね、覚如上人さまが皆の味わいの手本として書いて下さったのを報恩講私記(ほうおんこうしき)という。それをこうして報恩講の時には大事に礼拝して読んで下さっておる。一段、二段、三段あります。第二段目には、「悪事悪世界の今、常没常流転(じょうもじょうるてん)の族(やから)、もし聖人の勧化をうけたてまつらずば、争(いかで)か無上(むじょう)の大利(だいり)を悟(さと)らん。」ぼそぼそと声を出されましたやろ。あれがこの言葉なんです。「悪事悪世界の今、常没常流転の族(やから)、もし聖人の勧化をうけたてまつらずば、争(いかで)か無上の大利を悟らん。既(すで)に一声(いっしょう)称念(しょうねん)の利剣(りけん)を揮(ふる)いて」、一声の念仏と言うその意味は、あらゆる迷いや恐れというものを断ち切る名刀である。「一声(いっしょう)称念の利剣を揮(ふる)いて、忽(たちま)ちに無明果業(むみょうかごう)の苦因(くいん)を截(き)り、添(かたじけな)く三仏菩提の願船(がんせん)に乗じて、必ず、涅槃常楽(ねはんじょうらく)の彼岸に到(いた)りなんとす」その言葉だけを今皆さんに聞いてもらいましたけど、更にこれを解説するというかその心をぼちぼちとお話すれば、報恩講のお参りというものはね、本当に何遍かさねてみても,私はもう七十過ぎましたけれどね若いときからご縁あって早ようから住職しましたからもう五十年に近い。年々この報恩講を勤めさして貰うて来ました。年々新たであり、年々感銘が深まります。お参りの方がなかなか以前程にお集まりになれない雰囲気がありますけれども、私はそんな事は構わん。一人でもよい。「しんらんいちにんがためなりけり」といわれる。「たとええ一人なりとも」の蓮如様の言葉、人が多く集まってわあわあといって賑やかというて、それで仏法さかんやいうが、それは仏法盛んでもなんでもない。「いちにんにても信をとるこそ、仏法の繁盛」であるのだから、その為に「たとえ一人なりとも信をとるならば身を捨てよ」とおっしゃっておる。その一人の人の為に身を捨てよ。それは廃らないとおっしゃる。それは決して廃らないと。バイブルにも同じような言葉がありますがね。私は何人お参りになっても一人やと思うております。一人の人が対話できればもうそれで充分に仏法讚歎がさしてもらえたと。一人いても信をとるならばというのを、あんたが信心とってくれたらなどと思うたら間違いです。その一人は我が身です。「親鸞一人が為なり」とおっしゃった。我が身一人が信をとるという処にこの一人をかけるならね。人数なんてのは問題じゃない。そういう世界を生かさして貰うんです。詠歌に罪深くといわれる、罪という事を色々いいたいけれどまあ「一生造悪」の事もいいまたし、なんですからこの蓮如さんが吉崎へいらしたその年に書かれたお文さんの一番最初のお文さん一帖目ですけど、三通目にね猟漁(りょうすなどり)のお文というのがある。そのお文を見るとね、あの一言の為にあそこの猟師がどれほど救われたことか。猟をして、山へ行っては猪をかり,海へ行って魚を捕り、命奪うんやからね、命奪う事を仕事にする。その意味ではそういう事をするものはもう助からんと。そういう仏教の伝承やったんや。そういうものを根本から打ち破ったのが法然さん、親鸞さんの念仏の教えやからね。それを蓮如様はあの吉崎でその猟漁(りょうすなどり)の人々に対して、あきないをもし猟すなどりをもせよ。又当流の安心の趣を詳しくいうなら、ここにあながちに我が心の悪きをも改めよというのでないという。これも凄いでしょう。この頃は皆んな悪を止めて善を勧める廃悪修善(はいあくしゅぜん)をいいます。仏教ではこれを「悪を止めて善を修する」と。それを蓮如上人はそんな話じゃないと、我が心の悪きをも叉、妄念妄執(もうねんもうしゅう)の心をもそれを止めて、とどめよというのではない。それが念仏の信心の喜びの世界であると。ひっくり返ってきますね。ただ道徳倫理的な枠の中でものを考えとったら理屈は良いかしらんけれども実際問題になって見たらこの我が身は一つも救われん。なま身の私は救われませんわ。何んでか。現に背きどうしやがいね。うわべだけの形を整える事に心を費やして、その分だけうそ偽りがひどうなります。そこのところを仏かねてしろしめす。と申す時は人間のそんなね、うわっつらのそんな誤魔化しなんてものはとうに見抜いてしもうとる。だからね妄念妄執の心のおこるを止めよというのではない。そこから「ただあきないをもし、奉公をもせよ。猟すなどりをもせよ。かかるあさましき罪業にのみ朝夕(ちょうせき)まどいぬるわれらごときのいたずらものを、たすけんとちかいまします弥陀如来の本願にてまします」ここに本願によって支えられ、本願によって包まれて,本願によって許されておる。
ある意味でちょっと吟味せんならん点はありますけれども本願によって許されておる。本願を戴くことによって如何に人生生活の大きな自信になっていくか本願によって許されておる。弥陀如来の本願にてましますぞと深く信ずる。だからね、かかる罪業にのみ朝夕まどいぬるというそういう目覚め、かかる罪業にという、これもあの猟すなどりのをしているそこらの猟師、ものの命を奪って、それを仕事にしておるような人、それをいわゆる罪業の人というんじゃと。そういうふうにそれだけの部分で見たらこりゃうすっぺらな話です。蓮如様はそんな事おっしゃったんじゃない。人間生活というものは全部罪業に、嘘偽(うそいつわり)の罪業です。誤魔化しとる罪業です。そのかかる罪業にのみ、朝夕まどっておる朝も晩もそれにまどっておる私。この頃そういう意味で一つ味おうております事はね、まああえて我が身の思いを言わせて貰います。総理大臣といえどもかかる罪業にのみ朝夕まどっておるんです。国の為、国民の為夜も眠れん程ご苦労なさっておるわけや。尊いお仕事や立派なお方や。しかしこの本願の鏡に照らし出される時にいわゆる政治の世界、経済の世界、昨日観たテレビにねなるほど凄い時代になってきたもんじゃと思います。あの山陽新幹線の事件がどん々あらわになってきてますね。あのコンクリーべたべたのコンクリーを使ったそうですね。いわゆる水混ぜた。水混ぜコンクリー、そりゃ仕事し易いもの。柔らかいからセメントは余計要らんでしょう。儲かってどうもならん。砂が不足して瀬戸内海の塩水の砂を使った。その挙句が今の事件になってきたと、こういうような事をいうとりました。それが文化文明で、何が進んだかというと嘘偽(うそいつわり)が進んだということですね。罪深く罪業にのみ朝夕まどいぬる我らごときのいたずらものと。蓮如さんはね、お前らとはおっしゃらん。「われらごときいたずらもの、例えば我ら如き罪業深きものと、先ず我が身がそこに身をおいて、親鸞聖人の教えそのまま受け取られた。「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人(しんらんいちにん)がためなりけり。されば、そくばくの業(ごう)をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」、本願はそういうものをね。正面の相手とする。ほかのあらゆる仏は結局は見捨てたんや。そういう最低の極悪の機(き)というものはどうもならんと。それじゃ助けようがないと見捨てた処を、それを見捨てる限り仏は真の仏でない見捨てるものが例え塵一つ目に見えない塵程のものでも、見捨てておる限りそれは仏の成就(じょうじゅ)とはいえないというのが阿弥陀仏の本願。だから本願成就という事には大変な凄い力と願いが込められておる。しかも成就でしょう。必至滅度の願成就、願成就そうなったらよいなというて、只はかない願いを向こうにかけとるんじゃない。そういう願いをたてて、しかもその願いが成就せられて阿弥陀という仏になられた。そういう事を聞き開くのが、我々南無阿弥陀仏の信心を生きる浄土真宗の門徒の喜びです。そういう世界を聞き開く、もの凄い精神世界です。この本願は嘘でなかったと善導大師はおっしゃっております。これ夢みたいな話や。どだいが話しにならんような変な事をいうとると思っていたけれどその一点を尋ね求めて聞かしてもらうと、我が身の中になるほどと頷けて、確かめられたる頷きがある。
妙楽勝真心
これを善導大師は「まさにしるべし、かさねて誓われた阿弥陀仏の重い本願は嘘でなかった」という事がこれで実験されましたと。こんなふうにおっしゃっております。そういう処が願成就という事です。それが阿弥陀仏です。ただ阿弥陀仏は向こうにあるわけじゃないです。我々を完全に平等に助け尽くすという事を約束して、その約束を果たし遂げた姿と。だからその意味ではですよ、もう我々の救いというものを他に探す必要はない。阿弥陀仏が阿弥陀仏になった世界の中に我々の救いはもう終わっている。
しかしそういう事をうわべの言葉だけで、そんなら十劫(じゅっこう)の昔に阿弥陀仏が成仏したんやから我々は十劫の昔に救われとるがやぞというふうな屁理屈にした。これは十劫安心というてね、そんなものは何んにも聞いた事にも成らんと。これをいい出すとまた、話がはじまりますから、やめますけれども、しかし皆さんの何処か五体に感じ取ってほしい事がある。言葉は越えてあゝなんやら力んで云うていった坊主がおると。あれだけ力んで言うておる世界があると、力んでいわんならん事を通して、そこをこう我が身の上に頷いて見ると、そこに本当の妙楽勝真心といわれるものがある。これ天神菩薩の言葉ですけどね、妙楽ですよ。勝真の心、徒の楽でないんです。人間はまず外楽、外面の楽を追うものばっかりそれからたまたま心に恵まれた人は内心に深く喜ぶという事があって心に喜びを感ずるという事がありますけれども、それがどうかすると我が身だけの心の中にこもります。個人的にその人は喜ぶか知らんけれども、一人よがりや。そんな事では駄目や。ですから妙楽と言っても我が身の深い喜びと同時にそれを又、そのまま与える事ができる。他妙楽です。だから勝れた真実の心です、よい言葉でしょ。妙楽勝真心とこれが信心の中身でもあります。
一つここで皆様と一緒に確かめたいと思っておりますのは、罪深く如来をたのむ身になればとあるでしょう。ちょっと見ると、二つのことみたいですけどね、これは二つでないんです。罪深き身となる、かかる罪業にのみ朝夕まどいぬる我らごときいたずらもの、とそういう事を先にちょっと言わせてもらいましたけれども、そういう人間としてどんなに善いことや正しい事しておるつもりかしらんけれども、その事の中に誤魔化しやら、偽りやら、仏の真実に背いておる罪を犯しておる。そんなものは普通には出てきませんけど、そういう罪というものに本当に目を覚まさして貰う中に深い深い喜びがあります。罪を知る喜びというてもよい。これが信心の世界の中味ですわ。罪深い身になるんです。この頃は罪深いものは一人もおらん。例え人殺しても裁判で罪がないという事をね、いろいろと理屈をいうような時代です。そうでしょう、黒を白といいくるめるのが現代人の甲斐性になっている馬鹿げた話です。しかし本当の道理、真実の道というものの前にはそんなものは通用する筈がない。五十年百年かければ、いや千年二千年を貫いてというのが真実の世界ですからね。五十年や百年の間は誤魔化して旨い事したといってみたって、結局は本当の地獄ですわ。そういう地獄造りを今現代人は皆なして造っとるという感じがしてなりません。まさしく五濁悪世です。しかしそういう中におって、もう一ついえばそういうどろどろの中におるけれどもその泥に染まらないで、泥に染まらんでもよい道というものを与えられるのが念仏でないか。仏法世界は泥にあって泥を越える、蓮華の世界です。まあ味わいが深いですね。この罪深いものという身になる。そういう大きな懺悔の心。自身懺悔の心、それが法になる。のりの大きな力となって、行こうと思わんでも西方浄土、真宗の浄土へ自然に大手を振っていける。自分はこれだけの事をしたからそれをを種にしてという事を思うのが我々の心です。そういう自力我慢の心というものを、ひっくり返す。ここで如何に我が身を知るかということ、我が身は現にこれ罪悪生死の凡夫という、そういう信心、善導大師の深い深い信心の表白の言葉があります。我が身を信ずる、我が身をどう信じられたかと。罪悪生死の凡夫、罪のみの罪深き生死の凡夫、曠劫よりこのかた常没常流転ですね。流転し続けて来てしかも、その流転を、ここで止める事が出来るかというと、それを止める事はできない。ことほど、罪業そのものという処にまで深く深く我が身というものの目覚めを得た時に、それが真実の法の力となって、それがそのまま仏心です。そういう目覚めそのものが仏心の信心ですから仏心の信心、信心はまことの心という事を蓮如様はおっしゃっております。そういう事などもあれこれと思い思いしてのまとまりのない話ばかりして時間を費やしました。けれども戴いたご縁を有り難く存じております。お陰様で私自身が又一つの出遇いを戴いたような気がしております。皆さんのお力の結晶のような形がこのお御堂のお姿に拝まれましてね。大変な事をなさったわけです。ですからその意味で娑婆からいえば、普通の世間の話からいえばね、このお御堂の事業をなさった方はね、住職はじめとしご門徒の方々大手を振って極楽へ行けるわい、というふうな趣ありますけれども、しかし又これだけの事したから、これを種にしてと、そんなものを種にして行くような世界じゃないぞと。むしろ何百積んでもそんなものは種にならんという事を思い知らされる世界こそ、やはり深々とした真実信心の世界でなかろうかとこんな事も思わしてもろうわけで御座います。どうも失礼致しました。


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